遠くで誰かの声がする。しかも、相当怒っているようだ。
 だが、恐らく自分には関係のない事だろう。声は、あんなにも遠い。


 目を覚ますと、そこは一面が白い部屋だった。ベッドも、扉も、カーテンすらも白い。
 ここは、どこだろう?見覚えはまったく無い。
 室内には背の高い男が一人と、派手な女が一人いた。何か深刻そうに話し合っている。背の高い男の方は、知っている顔だった。だが、女がわからない。どうやら日本人のようだが、知り合いではなさそうだ。リンの知り合いだろうか。
 それにしても、珍しい。リンは日本人嫌いだというのに。
 それよりも、自分はどうしてここにいるのだろう?
 起き上がろうと体に力を込めると、鈍い痛みが走った。思わず呻き声が漏れる。一体、どうしてしまったというのだろうか。
 呻き声で目覚めた事に気づいたらしく、リンが弾かれたように立ち上がって近寄ってきた。女の方も立ち上がり、駆け寄ってくる。
「ナル、気分は?」
「全身に痛みはあるが、気分は大丈夫だ」
 答えるとリンは「それは良かった」と安堵の溜息をこぼした。一体何があったというのだろう。
「とりあえず、先生に連絡しなきゃ。ナル、特にどこか痛い所はない?」
 今、この女は自分のことを「ナル」と呼んだ。自分の名前を知っているという事か?一体どこから漏れたというのだろう。
 質問には答えず、微かな動揺も押し隠して冷ややかな視線を向ける。
「どちら様ですか?僕にはあなたのような知り合いはいなかったと思いますが」
 その瞬間、室内の空気が凍りついた。
 リンが目を見開き、女は頭を抱える。一体何だと言うのだろう。
「ナル、私のことはわかりますか?」
 酷く馬鹿らしい質問をされた。同じ仕事をしている人間を忘れる訳がないというのに。
 思いはそのまま顔に出ていたらしい。「わかるようですね」と溜息をつかれた。どこか、安堵したような顔で。
 …こんなに表情豊かな奴だっただろうか?
「あなたの年齢は、いくつですか?」
 また、馬鹿らしい質問をされた。本当に一体何のつもりだろう。
「17だが」
「…そうですか」
 そうこうしているうちに、医者らしい人間が入ってきた。もう一人の女が呼んだようだ。どうやらここは病院らしい。
 自分はまた力の使いすぎで倒れたのだろうか。
「気がついたようで、何よりです。気分はどうですか?」
 リンに答えたことをそのまま伝えると「それは良かった」と返された。
「全身が痛いのは強度の打撲のせいですよ。あんな所から落ちてそれだけで済んだのが奇跡です。検査にも異常は無かったし…」
 …落ちた?僕が?
 …どこから?
 リンに目をやると、沈痛な面持ちでこちらを見ていた。
 ――自分に、何があったというのだろう?
「先生、ちょっといいですか?話があるんです」
 不意に女が、医者を廊下へと連れて行った。恐らくは自分の事だろう。
 廊下に出る必要など、無いというのに。例え自分の余命があと一月と言われようと、ショックを受けるとは思えなかった。
 研究を続ける事が出来ないのは残念だが、それ以上の未練は感じなかった。
 希望など、既に持っていないのだから。

 二人が外に出ると、室内にはリンと自分だけが残された。
 重い沈黙が部屋を支配する。
 何となく外を眺めていると、窓ガラスに映った自分にふと違和感を覚えた。
 自分はこんな顔をしていただろうか?
 もっとよく観察しようと目をこらしたところで、リンが口を開いた。
「…ジーンのことは…どこまで覚えていますか?」
「あの馬鹿を探すために、日本に来たんだろう。そうでなければわざわざこちらに来る意味はない」
「そうですか。では…日本に来て、どのくらい経ったかわかりますか?」
「まだ数ヶ月だと記憶しているが」
 ここまで聞くと、リンは顔を覆って重い吐息を吐いた。何かを理解したようだ。
 またしばらく沈黙した後、何かを振り切るように顔を上げた。
「ナル、あなたは調査中に崖から落ちました。そのせいかはわかりませんが、記憶が退行を起こしています。我々が日本に来て、もう三年以上経っています。あなたの年齢は…もうじき20歳です」
 驚きは、無かった。ただ、先ほど感じた違和感はこれだったのか、と納得した。
 やはり、人間というものは年を経ると顔が変わるものらしい。
 三年経過した現在もまだ日本にいるという事は、ジーンはまだ見つかっていないのだろうか?
「ジーンはまだ見つかっていないのか?」
「それは……」
「ストップ。それ以上教えたら駄目よ」
 リンの声は先程の女の声によって遮られた。いつの間に戻って来たのだろう。
 険しい顔でこちらを睨みつけている。
「自分の状況は把握できた?」
「それなりには」
「それは良かったわ。でも、これ以上の事は教えられないのよ」

「あなたに何の権利があって僕に指図を?あなたには関係ない事だと思いますが」
 冷ややかな声に怯む様子もなく、女は言葉を続ける。
「今、アンタの主治医と話をしてきたからよ。これは私の判断じゃなくて、医者の判断。理由は、記憶が退行した理由がその三年間にあった出来事と関係してる可能性が高いから。きっかけは今回の調査だろうけどね。どうせまだ動けないでしょ?しばらく入院してなさい。それに…」
 ここで女は一旦言葉を切り、俯いた。何かに、耐えるように。
「…アタシ達もしばらく、ここを動けないから」
 ようやく紡がれた言葉は、酷く痛々しい響きを含んでいた。
 理由を問うのを、躊躇わせるほどに。



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