「二度の喪失に耐えられなかったのだろう」と医者は言った。 医者の言う一度目とは、恐らくジーンの事だろう。だが、二度目は? 二度目の喪失、ということは自分は何か手に入れたのだろうか? ――有り得ない。 ジーンの事は、確かに喪失と言えるだろう。ジーンは生まれる前から一緒にいたのだから。 自分が手に入れた訳ではない、偶然から与えられた半身。 だが、二度目という事は自分から求めたという事だ。 自分がそういった行動に出るとは到底考えられなかった。医者は何か勘違いをしているのだろう。 記憶が退行したのは恐らく頭を打った衝撃からで、精神的なものが関係しているのではなさそうだ。 いつかは回復するのかもしれないが、戻らなくてもあまり問題は無いのではないだろうか。 三年間の研究結果は惜しいが、自分が残しているであろう資料を見れば何とかなる。 忘れてしまうような記憶なら、所詮大したことではなかったという事だろう。 周囲の人間が自分の過去を教えたくないと言うのなら、構わない。知らなくても、資料さえあれば知識は補えるし研究も続けられる。 だから、問題はないはずだ。 それが、ナルの出した結論だった。 目覚めてから一週間目。 その日は、それまでと何かが違った。 何故か酷く苛立ち、落ち着かない。何かをしなければならないとは思うのに、それが何かわからない。 ――何かに呼ばれているような気がした。ずっと遠い場所から。 病室の外を、慌しく看護婦が走っていく。 そういえば、いつもは誰かしらこの病室にいるのに今日は誰も来ていない。 彼らがこの病院から離れられない理由と、何か関係があるのだろうか? 「ナル」 誰かの声によって思考の海から唐突に引き戻される。声のした方向に視線を向けると、黒髪の少女が立っていた。この人物は、確か日本で霊媒師として有名だったはずだ。 何故、彼女がここに? 「本当に覚えてませんのね。呆れたこと」 小さな溜息を落とすと、彼女は俯く。さらり、と頬に落ちた髪が表情を隠した。 どうやら自分は三年の間に、この少女とも知り合いになったらしい。まぁ、仕事を考えれば全く不思議ではないのだが。 「他の方々はあなたに今の状況を教える事に反対してますわ。医者の指示もありますもの、当然ですわね」 でも…と少女は言葉を続ける。 「あたくしは、そうは思いませんわ。このままではあなたは、大切なものを永遠に思い出せなくなると思いますの。残滓すら残さず、無かったことになってしまいますわ。…ある意味それはとても楽な事かもしれません」 そこで一旦言葉を切ると、それまで俯けていた視線をこちらに向けた。 その瞳は微かに赤く、疲弊している事が容易に伺えた。 だが、強い意思の篭った視線は揺るがず自分を射抜く。 「でもあたくしは、あなたに楽で意味の無い人生より、辛くても何かを手に入れる人生を送って欲しいと思いますの。だから、教えて差し上げますわ。…麻衣の容態が悪化しましたの。今、とても危ない状況ですのよ」 そんな人物に心当たりはない、と言うはずだった。事実、知らない名前だ。 だが、言葉を発することはできなかった。 何かに圧迫されているようで、声が出てこない。 マイ。 聞き覚えの無い、名前。…本当に? まい。 口に出して、確かめてみようか。 「…麻衣」 声を搾り出すようにしてその名前を口にした途端、頭が割れるように痛み出した。それと同時に耐え難い眠気も襲い掛かってくる。 まるで、何かに呼ばれているように。 抗う術も無く、ナルの意識は闇へと落ちていった。 誰かが、呼んでいる。いや、怒鳴っているようだ。煩くてたまらない。 一体何だと言うのだろうか。しかも、その声には聞き覚えがあるような気がする。 「…ナル!ナルってば!!」 突然、耳元で叫ばれた。一気に意識が浮上する。この、声は… 瞼を開けると、目の前には見慣れた顔があった。自分と同じ顔、同じ声。 その人物はナルと目が合うと、溜息をついた。 「やっと話せたね。もう間に合わないかと思ったよ」 「…まさかお前は、霊媒のくせに迷ったのか?…ジーン」 もう一度、盛大に溜息を吐かれた。 「本当に何も覚えてないんだ?案外ナルって馬鹿だよね〜」 「わざわざ探しに来てやった人間に言う言葉か?」 それはすごく嬉しかったんだけどね、と苦笑してジーンは呟く。 「でも、ナルは馬鹿だよ。麻衣を失うのが怖くて、麻衣のことを忘れちゃったんだから」 胸が、軋む。 知らず、シャツの胸元をきつく掴む。 「麻衣を失うくらいなら、全て無かった事にしたかったんだろう?ねぇ、ナル」 思い出しては、いけない。思い出したくない。 「その弱さは、誰でも持ってるものだよ。誰だって、失うのは怖いんだ。でも、その弱さを認められないと、本当 の意味でその人を失うんだよ。ナルはそれでもいいの?」 どういう、意味だろうか。 「会えなくなっても、その人との思い出とか気持ちは残るんだよ。辛くても、苦しくてもそれだけは残るんだ」 でも…とジーンは続ける。 「会えなくなった上に、その人といる事で得たものまでなくしてどうするんだい?」 頭が、痛い。 「何も無くなるんだよ。その人がいたっていう証まで」 何かが、湧き上がる。得体の知れない何かが。 「ねぇ、ナル。もう一度聞くよ。麻衣を本当に失ってもいいの?」 「…どうしろと言うんだ。僕はもう、独りで残されたくない」 「ナルが、守ればいいんだよ。自分の命を捨てない方法で」 ジーンの言葉に、思わず目を見張る。 「ナルが死んだら、麻衣がこんな思いをするんだよ。だから、麻衣は君を庇ったんだ。ナルが死ぬと思ったから。君達は、同じ傷を抱えているんだよ。だからお互いに、守ればいい」 「それでもいつか、必ず人は死ぬんだ」 「その時は、一緒に逝けばいいんだ。それまで精一杯生きて、限界まで一緒にいればいい。自分と、相手を守るんだよ。…大丈夫、君達なら出来るよ。まだここに来るのは早い」 でも、麻衣は。彼女はもう… ナルの心を読んだように、ジーンが笑う。 「今ならまだ、間に合う。ナルが直接呼べばいいんだよ。麻衣はここにいる。僕が呼んだら、駄目なんだ。麻衣は今、僕に近すぎる場所にいるから。ナルじゃないと駄目なんだよ」 麻衣が、ここにいる? 「ほら、あっちだよ。ちょっと明るいだろう?」 ジーンが仄かに明るい方を指差す。 「早く。あまり時間はないんだ」 ジーンの言葉にせかされるように、走り出す。 本当に、まだ間に合うのだろうか?いや、間に合わせてみせる。どんな手段を使ってでも。 「ナル、麻衣をよろしくね」 遠くから、ジーンの声が聞こえたような気がした。 そこはひたすら白い場所だった。靄に覆われているようで、周囲の様子はあまりはっきりしない。 いつこんな場所に出たのかもはっきりしない。だが、そんな事はどうでも良かった。 目の前に横たわっている少女だけが、意識を縛る。 「麻衣」 名前を呼ぶ。 どうして、忘れていられたのだろう。あんな喪失感を抱えていたことに、気づかずにいられたのだろう。 今、彼女がいるだけで、こんなにも満たされている。 「麻衣、起きろ」 頬にかかった髪を払い、抱き起こす。 「麻衣」 強く、名前を呼ぶ。繋ぎ止めるために。 微かに麻衣の瞼が震え、ゆっくりと鳶色の瞳が現れる。 「…ナル?」 ――一度は、失ったと思った。また、独りになったのだと。だから、無かった事にした。 けれども。彼女はここにいる。まだ、自分の傍にいる。 「ナル?どうしたの?」 掌に感じるのは、確かな温かさ。生きている証。 「ここ、ジーンがいる所だよね?どうしてナルがここにいるの?」 「起きたら、全て教えてやる。とりあえず今は戻れ」 「はぁ?どういう事?」 自分の状況がわかっていないらしく、怪訝な顔で抗議された。 本当に、馬鹿ではなかろうか。早く戻らなくては、二度と帰れなくなるというのに。 「いいから、戻れ。すぐに状況はわかる」 何なんだ、などとぶつぶつ言う麻衣の輪郭が薄れてゆく。 完全に消えてしまうのを確認して、その場に立ち上がる。自分もそろそろ戻らなくては。 今度こそ、守らなくてはいけない。失わないためにも。 ――絶対に。 麻衣が、去り、ナルも去ったその場所にはジーンが独り佇んでいた。 「ちょっと、寂しいかな」 ぽつり、と呟いた言葉は思いのほか大きく響き、この場所に誰もいないという事を実感する。 正直、麻衣がこちらに近づいた時は嬉しかった。独りでこの場所にずっといるのは、結構辛い。 だが、麻衣がこちらに来たらナルはどうなるのだろう?そう思ったら、麻衣をとどめておくことは出来なかった。 確かに独りは嫌だったが、ナルが不幸になるのはもっと嫌だった。 「麻衣、ナルをよろしくね」 独白は、ひっそりと闇に溶けてゆく。誰に聞かれることもなく。 そうして彼はまた独り、眠りについた。 いつかまた、この場所に麻衣が訪れるのを待ちながら。 |
アトガキ
5000Hitを踏まれた朱由様のリクエストで、「ナル麻衣で記憶喪失or記憶混乱」をテーマに書かせていただきました。何故か、ものすごい長さになってしまって…(汗)特に後編がすごい事になってます。すみません。 書いているうちに、ナルがとてつもなく情けなくなってます。偽者もいいところ…(遠い目)でも、一度ジーンを亡くしてるわけですから「独りになる」という事には敏感だと思います。もちろん、家族を亡くした麻衣も。 最後になりましたが、本当にリクエストありがとうございました!! |