「もう、優しくしないで。あたしなら大丈夫だから。独りになっても、ちゃんとやっていけるから」
麻衣の言葉を聞いた瞬間、全てが終わった気がした。
彼女はこの結末を選ぶのか、と。

――すれちがい――【ver.noll】

あの日、偶然見えた光景の中で麻衣は困り果てていた。
情けなく眉尻を下げ、目の前の物体を見つめている彼女の周囲には友人と思しき数人。そのうちの一人が、麻衣の肩を軽く叩く。
「大丈夫だって。これで決まりってわけじゃないし。病院できちんと検査してくださいってこれにも書いてあるでしょ?」
そういって差し出された箱は、妊娠検査薬の箱だった。



 あれから、二週間が過ぎた。麻衣の様子に変化はなく、自分に妊娠の事実を告げることもなかった。麻衣が子供を産みたいと思っているのか、それともその気は無いのか。それすらもわからない。彼女の性格からして、中絶したいと思うことはないだろう。
 しかし、麻衣はまだ高校生だ。これからの人生を確定してしまうには、少々若すぎる年齢だ。そして、その伴侶は自分なのだ。今までの己の行動を振り返ってみると、父親としてふさわしいとは到底思えない。むしろ、女性からしてみれば願い下げなのではなかろうか。
 それに気付いてから、ナルは生活を改めた。書斎に引き篭ることをやめ、なるべく麻衣と時間を共有するようにした。妊婦の負担になるようなことは一切させず、大半の家事を引き受けた。
 それらは、あまり難しいことではなかった。苦痛に感じることもなかった。だが、問題は―――夜だった。
 今が大事な時期なのだから、無理をさせるわけにはいかない。それはよくわかっている。しかし、同じベッドで無防備な寝顔を晒されていると、抑えがたい衝動が湧き上がってくる。少し距離があればまだいいのだが、擦り寄ってこられると理性が崩れ落ちそうになる。そのため、最近はオフィスで夜を明かすことも少なくなかった。



「遅くなってごめんなさい。すぐにご飯の用意するね」
不意にかかった声で、はっと我に返る。壁の時計に目をやると、随分と時間が経過していた。
「いや、僕がやっておいた。シャワーでも浴びてこい」
考え込んでいたことを悟られぬよう、冷静に声をかける。が、反応はない。下を向いたまま、何か考え込んでいる。
「麻衣、どうした?」
座っていたソファから立ち上がり、麻衣をそっと抱き締めて頭を撫でる。何かあったのだろうか?それとも、やっと言う気になったのだろうか。
「・・・っく」
不意に、嗚咽が耳を掠めた。麻衣を見下ろすと、微かに震えている。
――泣いている?
俯いたままの顔を覗き込むと、透明な滴が頬を濡らしていた。軽く溜息をつき、涙を拭ってやる。
「何故、泣く?」
自分はまた何かしてしまったのだろうか。彼女を傷つけるようなことを。
しかし、次の一言でそれらの思考は粉々に吹き飛んだ。

「もう、優しくしないで。あたしなら大丈夫だから。独りになっても、ちゃんとやっていけるから」

今、彼女は何と言った?
独りになる?
――自分の傍から、いなくなる?
麻衣は、この結末を選択したというのだろうか。
子供が出来たのを機に、自分から離れていくという結末を。
そんなことを許せるはずがなかった。彼女は、自分のものだ。誰にも渡さない。
思わず本音を漏らしかけた瞬間、再び麻衣が口を開いた。
「荷物なら、すぐに纏めるから。元々たいした量じゃないし、1日あれば終わるよ。・・・断れない縁談がきてるんでしょ?」
今度こそ、時が止まったかと思った。縁談など、きているはずがない。まどかの手によって全ての申し込みは却下されているはずだ。
「あたしなら、大丈夫だよ」
思わず、安堵の溜息を吐いた。何やら勘違いはしているが、離れたいと思っているわけではなさそうだ。
「・・・きていない。麻衣が出て行く必要も一切無い」
残る問題は、ただ一つ。
麻衣の誤解を解くことだ。これがある限り、麻衣はここから出て行こうとするだろう。しかし、妊娠している女性は情緒不安定になっていることが多いと聞く。しばらく休ませて、落ち着かせた方が良いだろう。
「お前は今、情緒不安定になっているんだ。少し横になった方がいい」
そのまま、呆然としている麻衣を抱き上げ、寝室へと足を向ける。余計なことを考える前に寝かせてしまった方が得策だ。
しかし、ナルが麻衣を寝かしつけるより、麻衣が我に返る方が速かった。
「なら、どうして最近こんなに優しいの?納得できないよ」
――確かに、そうだ。自分でもあからさますぎると思っているのに、麻衣が不審に思わないわけはない。
しかし、これは麻衣の口から直接聞きたかったのだ。ここまできたら、言わせたい。だが、麻衣がまた変な誤解をして今度こそ本当に離れていってしまったら?
しばしの葛藤の末に、ナルは重い口を開いた。
「妊娠してるんだろう?」
「誰が?」
「・・・麻衣が」
麻衣が目を見開いた。驚いている。気付かれているなんて、思いもしなかったのだろう。
「妊婦に無理をさせるわけにもいかないだろう。本来なら学校に行くことも誉められたことではないが、そこまで行動を制限するのもどうかと思って口を挟まなかったんだ。今が大事な時期だから、気をつけなければ取り返しのつかないことに・・・」
僕の説得は、麻衣によって遮られた。
「ナル、あたし子供できてないよ。こないだ生理きたばっかりだし」
・・・なんだって?
「ってか、どうやってそんな誤解したの?」
「・・・たまたま麻衣の鞄に触ったら、友人と話しているのが見えた」
「・・・それって丁度二週間前?」
頷きで答えを返すと、麻衣が眉根を寄せた。
「それ、クラスの子の話だよ。妊娠しちゃった子がいて、状況が深刻だったからみんなで相談に乗ってたの・・・もう解決したけど」
部屋を、沈黙が支配する。
どうやらお互いに酷い勘違いをしていたようだ。麻衣は、妊娠していなかった。
一気に足から力が抜け、麻衣を抱き上げたままその場に座り込んでしまった。
暫しの沈黙を経て、口を開く。これだけは今、伝えておかなくてはいけない。
「お前が誤解していたようなことは、有り得ない。僕は麻衣を手放すつもりはない」
ふわり、と麻衣の顔が綻ぶ。花が開くように。
「ごめんね、ありがとう。あたしも、ナルと一緒にいたい。・・・だから、妊娠したことを黙ってたりはしないよ」
耳元で囁かれ、そっと髪を撫でられた。
苦笑して、抱き締め返す。
「すまなかった」
自分のような能力を持っていても、言葉は大切だ。
そのことを、思い知ったような気がする。言葉にしなければきっと、何も伝わらない。
誤解があってもすれちがったままになっていただろうから。


「ところで、麻衣はどうやったらあんな酷い誤解をしたんだ。妙な雑誌でも読んだのか?」
「違うよ〜。綾子に相談して、それで出した結論だったんだよ。後で電話しとかなきゃ」
「・・・そうか、松崎さんか。そういえば、今日は何か変わったことはあったか?」
「あ、そういえばね、今日学校で・・・」
麻衣の話を聞きながら、ナルは密かに決意を固めた。麻衣にくだらない考えを吹き込んだ彼女には、思い知ってもらわなければ。他人のものに手を出べからず、ということを。

松崎綾子の運命や、いかに。




アトガキ(懺悔)

と、いうわけで懺悔です。本当はこの話、麻衣バージョンのみの予定でした。しかし、私がヘマをやりまして急遽ナルバージョンも作成することに相成りました。ええ、やったんですよ・・・。ナルが夜出掛けていた理由、書き忘れました。しかも、清明様からのご指摘で気が付いたという、大間抜けです。・・・本当にすみません(涙)
今回も綾子の運命は書いておりません。皆様のご想像にお任せします〜vv




モドル