最近、ナルが優しい。 ものすごく優しい。 優しすぎて、ちょっと怖い。 あたしが何も言わないうちに買い物に行ってくれて、家事もやってくれる。 眠くてぼーっとしていると、普段は叩き起こすくせにここのところ放っておかれる。それだけだったら諦められたっていう可能性もあるけれど、気が付くとナルの上着がかかっている時点でその可能性も低い。 その上、家に帰ったとたんに押し倒されることがなくなった。 ちゃんとお風呂に入って、ゆっくり眠ることができる。寝ているところを襲われることもなくなった。 おかしい。 いや、私としては助かるんだけど、今までの経験からして絶対に有り得ない事態だ。 もしかすると、拾い食いでもしたのかもしれない。 それとも、時々ジーンが憑依しているとか。 ・・・それはちょっと嫌だなぁ・・・ 本当に、どうしちゃったんだろう? ―――すれちがい――― 「あのナルが!?あんた一体何したのよ」 「何もしてない。心当たりが無いから尚更怖いんだよね」 静かなオフィスに高い声が響きわたる。 ここの所長がいれば、ブリザードが吹き荒れていたことだろう。しかし、幸いなことに当人は書店から連絡を受け、不在だった。更に言うならば、寡黙なメカニックも所用があると外出中で、越後屋も今日は休みだった。 だからこそ、綾子がやって来た時点でオフィスが人生相談室になった訳だが。 最初のうちは麻衣も、「どういう風の吹き回しだろう」と戸惑いはしたものの黙って状況を受け入れていた。しかし、2週間も続くと心配になってくる。本人を問い詰めても「何でもない」の一点張りで全く話は進まず、そのくせ何か言いたげにこちらを観察していることが多々ある。 はっきり言って、不気味だ。 そこまで話すと、綾子はじっと黙り込んでしまった。 口を開けるような雰囲気ではなく、沈黙が部屋を支配する。 時計が時を刻む音だけが、やけに耳についた。 そして、10分ほど経った頃。ようやく綾子が口を開いた。 「色々考えたんだけど・・・アンタ、浮気されてるんじゃないの?」 「はぁ!?あのナルが浮気ぃ!?」 予想もしない答えに、思わず麻衣の声が裏返る。 「いい?よく考えてみなさい。ここのところやけに優しいんでしょう?それで何か言い出しにくいことがあるなんて怪しすぎるわよ」 「でも、それだけで浮気扱いなんて・・・」 「最近、夜に出掛けることが多いんじゃない?」 「・・・確かに、ちょっと多いよ。お風呂から上がったら書置きだけ残ってたり、夜中に目が覚めたらいなくなってたり・・・」 ほら見たことか、と言わんばかりに綾子が頷く。 「その書置き、オフィスに忘れ物をしたとか論文の資料取りに行ったとか書いてあるんじゃない?」 「なんでわかるの!?」 「そういう時の言い訳って、仕事が一番多いのよね」 「そんな・・・」 俯いてしまった麻衣の頭を、綾子が軽く叩く。 「まだ決まったわけじゃないわ。でも、可能性として頭にいれておいた方がいいかもね。一度、きちんと話し合いなさい」 黙り込んだまま、麻衣が頷く。 「アタシなら夜中でも電話して大丈夫だから。いい?独りで考え込んでても、答えなんか出ないわよ。誰でもいいから、話しなさい」 もう一度、微かに頷くのを見て綾子は席を立った。 「もう終業時間だし、そろそろ帰るでしょ?送るわ。ちょっとお茶でも飲んで気分を変えるのもいいし」 そのまま戸締りなどをテキパキと終えると、綾子は麻衣を連れて外へと出て行った。 麻衣がマンションに戻ると、すでに窓からは明かりがもれていた。その明かりを見上げ、溜息をつく。あまり、帰りたくない。 しかし、そのまま外にいるわけにもいかずエントランスへと向かいエレベーターに乗り込む。こんな時に限って他の利用者はおらず、やけにスピードが速い気もする。あっという間に目的の階へと辿り付き、ドアは開いてしまった。 重い足を引きずり、ナルの部屋の扉を開ける。玄関には、やはり見慣れた靴。 (何があっても、頑張ろう) 心中で気合いを入れると、麻衣はリビングへと向かった。 「遅くなってごめんなさい。すぐにご飯の用意するね」 ファイルを眺めている背中に声をかけると、ここ最近の決まり文句が返ってきた。 「いや、僕がやっておいた。シャワーでも浴びてこい」 (・・・やっぱり、優しい) 綾子の言葉を思い出すと、涙が出そうになる。 ナルの気持ちを疑うわけではないが、彼には地位というものがある。断れない縁談がきてもおかしくない地位が。 それならば、自分は身を引いた方がいい。 ナルの足枷にはなりたくない。 「麻衣、どうした?」 不審そうな声と立ち上がる気配がして、そっと抱き締められた。大きな手が、そっと頭を撫でる。 ――そこが、限界だった。 あっという間に視界がぼやけ、何も見えなくなる。 せめて泣いているのがばれないようにしたかったのだが、次から次へと溢れる涙に、堪えきれず嗚咽が漏れる。 まずい、と思った時にはすでに遅く、顔を覗き込まれた後だった。 「何故、泣く?」 軽い溜息と共に言葉がふってきて、綺麗な指先が目尻を拭う。 ナルの傍は、とても居心地がいい。 一緒にいるだけで、幸せだ。 だけど、けじめはつけなくてはならない。お互いのためにも。 「もう、優しくしないで。あたしなら大丈夫だから。独りになっても、ちゃんとやっていけるから」 一息に言うと、ナルが息を呑んだ。あたしが気付いてるなんて思わなかったんだろう。沈黙を肯定と受け取って、更に言葉を継ぐ。 「荷物なら、すぐに纏めるから。元々たいした量じゃないし、1日あれば終わるよ。・・・断れない縁談がきてるんでしょ?」 ナルの顔を見上げ、もう一度言う。 「あたしなら、大丈夫だよ」 決死の言葉に返ってきたのは、重い溜息だった。 「・・・きてない。麻衣が出て行く必要も一切無い」 一瞬、時が止まったかと思った。 今、なんて? 「お前は今、情緒不安定になっているんだ。少し横になった方がいい」 そう言って抱き上げられ、我に返る。 ナルの言葉が本当だとしたら、どうして優しいのか理由がわからない。 「なら、どうして最近こんなに優しいの?納得できないよ」 ナルはしばらく視線を彷徨わせた後、言いにくそうにぼそっと呟いた。 「妊娠してるんだろう?」 「誰が?」 「・・・麻衣が」 頭の中が一瞬、真っ白になった。 「妊婦に無理をさせるわけにもいかないだろう。本来なら学校に行くことも誉められたことではないが、そこまで行動を制限するのもどうかと・・・」 ナルが何か言っていたけど、あたしは聞いていなかった。生理なら先日、終わっている。妊娠しているわけがなかった。 「ナル、あたし子供できてないよ。こないだ生理きたばっかりだし」 ナルが目を見開く。よほど驚いたらしい。 「ってか、どうやってそんな誤解したの?」 「・・・たまたま麻衣の鞄に触ったら、友人と話しているのが見えた」 「・・・それって丁度二週間前?」 頷くナルに、頭痛がしてくる。こんなことで誤解されてるなんて、考えもしなかった。普通、考えないだろうけど・・・。 「それ、クラスの子の話だよ。妊娠しちゃった子がいて、状況が深刻だったからみんなで相談に乗ってたの・・・もう解決したけど」 部屋を、沈黙が支配する。 あたしの勘違いも相当だけど、ナルのも結構ひどい。 天才博士って言われてるけど、何だか疑わしくなってくる。 ナルはあたしを抱き上げたまま、床に座り込んだ。気が抜けたらしい。 暫しの沈黙のあと、ナルが口を開いた。 「お前が誤解していたようなことは、有り得ない。僕は麻衣を手放すつもりはない」 滅多に気持ちを言葉にしてくれないナルの言葉は、心に染みた。お返しにナルの首にしがみついて、耳元で言葉を紡ぐ。 「ごめんね、ありがとう。あたしも、ナルと一緒にいたい。・・・だから、妊娠したことを黙ってたりはしないよ」 表情は見えなかったけど、苦笑する気配がして抱き締められる。 「すまなかった」 言葉の後、キスの雨が降ってきた。 額に、頬に、唇に。 あたし達は、言葉が足りなかったんだね。だから、ちょっとしたことですれ違ってしまった。これからは、全部ちゃんと言葉にしよう。ずっと、二人でいたいから。 「ところで、麻衣はどうやったらあんな酷い誤解をしたんだ。妙な雑誌でも読んだのか?」 「違うよ〜。綾子に相談して、それで出した結論だったんだよ。後で電話しとかなきゃ」 「・・・そうか、松崎さんか。そういえば、今日何か変わったことはあったか?」 「あ、そういえばね、今日学校で・・・」 珍しく話をしてくれるナルに浮かれて、麻衣は気付かなかった。ナルが、仕返しを決意したことに。 計画は、麻衣の知らないところでひっそりと練られてゆく。 松崎綾子の運命や、いかに。 |
アトガキ
2222Hitを踏まれた清明様のリクエストで、「ナル麻衣で誤解」をテーマに書かせてただきました。きちんとテーマに添えているのか怪しい一品です。未熟ですみません・・・。 綾子姉さんの運命は、ご自由に想像なさってください(笑) 本当に、リクエストありがとうございました〜vv |